love in the first degreeだね

フルグラはおいしい

 

 

世界で1番大事なものは、私です

 

次に大事なものは、おばあちゃん

その次は、ばんちゃん

 

私は自分が死ぬことが昔からあまり怖くないんだけど、おばあちゃんや、ばんちゃんがいつか死んでしまうということはとても怖いことだ。

 

自分が死んだら世界も全部終わると中学生くらいまでは思っていたけど実はそうじゃなかったし、大事な人が死んでしまったあとにはきちんと生きている私が残ってしまう。

順当に行けば2人とも私より先にいなくなるから、そんな時間の寂しさや衝撃に出会うのが怖くて、日々はその瞬間までのカウントダウンであり、心構えをつくるための毎日だと思う。

命を分けてあげられるなら、私達3人で分け合ってみんなで一斉におやすみ〜と出来ればいいのになあと思ったりする。けどそういうのは多分違うんだろうな、私達は別々の生き物だから、死ぬのも生まれるのも別々なのだ。

 

 

いつか結構好きな男の子と付き合っているときに、旅館の小さい椅子が2つ並んだところでお酒を飲んでいて、ふと「いつかどちらかが死んでしまったら」なんて話をしていたら、予想以上に哀しくなってきて、泣いてしまったことがあった。あのあと2人は解散して、もう死んだも同然になった。あの時あんなに哀しかったのに、もうどこにもそんな気持ちはなくて、ただ可愛い2人の風景だけが記憶に残っている。

 

 

いつかまた人生が変わって、おばあちゃんとかばんちゃん以外に大事に思う人ができたりすれば、こんな風に過ぎ去った思い出としてその日までの日々を消化できるのかな。そんな人生を私はあまり希望していないな。

 

4/5の日記

 

4/5

またやってしまった。みんなでmbtiの話をしてて、後輩に「結論から話しないと不快だなって思うタイプですよね?」と言われた。

そんなことないのにな〜と思いつつ

「でもわからないこと聞かれた時に論点をわざとずらして違うことを答えてくれる人とかは、あ〜わかってないんだなって思うし、わからんなりに自分の中にある精一杯の情報を伝えてくれてるんだなって思うよ」

と上司の目の前で言ってしまい、若干怒られが発生した。自分の中では日本語的に筋が通っていても、「言ってしまい」と思うくらいにはこれがアウトな発言であることはわかるんだよ。こういう時に自分の気持ちを100%言葉に正しくする必要はないんだよな〜〜。ヒェん。

 

でも本当に日常生活をしていて、さっきのようなまわりくどい答え方をされることが多くて、もしかしてそれが普通で、それが親切なんでしょうか。

最後には答えがくるんじゃないかと耐えて耐えて話を聞いて結局、答えがなかったとき、すごく疲れる。頭がいい人ならその途中の会話にヒントを見つけるのかもしれないけどね。国語の答えならバツになるような会話が、私は苦手なのかもしれない。

 

でも、だからといって、私の喋りが本当に正しいものであればこんなふうに誰かに怒られたりはしないのです。私が他人に不快に思う回数よりもきっと、他人が私の発言に不快に思う回数のほうが絶対に!絶対に多い。国語の答えがマルでも道徳の答えとしてはバツなんだろな。

壁に喋るなら良くても、人に喋ってはいけないことが存在するのが社会なんだね。(学んだ)

間違ってるか間違ってないかじゃなく、相手に対して優しくあれているかどうかで動ける人って、自分とは全然違う思考回路で物事を考えている気がして、宇宙人に近い。

社会の

 

食べられなかったときも、食べまくってたときも、それで肌がぶつぶつで気持ち悪くなったときも、自分が最高だと思ってる変な髪型してたときも、切羽詰まって心無い発言をしてしまったときも、ずっと誰かがそばにいてくれたなと、昔の写真を見返していて思った。寂しい、誰にもわかってもらえないと思っていたけど、私全部をまるっと受け入れてもらう必要はなくて、私のいろんな一面を少しずつ知っている人がいれば、それはけっこう楽なことかもしれない。友達とか、いつも駅前を熱心に掃除している人とか、レジで挨拶だけする人とか。丸ごと受け入れてもらう必要はないということは、丸ごと誠実でいたり丸ごと間違いのない人間でいなくてもいいということだと思う。

いつも自分の考えていることの「全て」が適切に言葉にして相手に伝えられるように、等身大の私を受け入れてもらえるように、と思っていたけど、そこに集中しすぎて、その空間で生まれる感情の素晴らしさをわかってなかったな、と思った。(自分のお気持ちを表明したいだけなら、壁と喋っていればいいんです)

私のいろんな一面を一部知っている人が各所にいて、そこで生まれる化学反応のようなものが、コミュニケーションなんだなぁ。私は全然美味しいところをしらずに、コミュニケーションが辛いと思っていたなあ。

落ちているときも、良い具合の時も、自分が醜い時も、そういうの全てを指摘せずに離れずに、一緒にいてくれていた人達の、社会の、ありがたさよ。寂しいとき、全てを受け入れてくれる神様のような運命の1人を私は求めていたけど、そんなたった1人だけが、私を救ってくれたわけではないし、きっとこれからもそうなんだと思う。私はたった1人で、死ぬまで1人で、心の全てを分かり合える人なんていない、だからこそたくさんの人との関わりなしには、生きていけない。もう大丈夫そう。

 

天啓を

 

 

この間すごく天気が良くて気持ちいい朝に、急に、明るい話をしたいなあと思った。人とうまく話せないことや距離感がわからないことや、思わぬところで人を怒らせてしまうことや、すごく寂しいのに誰にも会いたくなかったりすること、そんな話はもういいやと思った。

もっと明るくて、意味のないような、何にも解決しない話がしたい。

水族館に行って大きい水槽みたい。象の皮膚ってどんな感じかさわってみたい。屋台の焼きそばのこげてる匂いがかぎたい。夜行バス乗って朝起きたら知らないところにいていたい。桜がいっぱい咲いてるところをみたい。博物館で大きい動物の剥製がみたい。

なんだ自分はこんなにやりたいことあったのかと思うくらい、本当はやりたいことがたくさんあった。それは暗い時の自分が意味がないとかメリットがないとか決めつけていたことたちで、悪い癖でそういう物事への感情を「元から無かったこと」にしてしまっていたけれど、「やりたいけどやれていない」くらいにしていようと思った。

 

3/28の日記

 

3/28

部屋で髪を乾かしたあとに洗面所に戻ったら、風呂の扉、収納棚などの全ての扉が開けっぱなしになっていて、もちろん犯人は私なんだけどなんか可笑しかった。早起きできるし毎日掃除機かけられるけどこういう所もあります、私はロボットじゃないです、にチェックを入れたときのような少し誇らしい気分になった。

 

最近友達ができた(と思う)

社会に出て、自分がこれまで人間関係に恵まれてきてたんだなと実感していて、それは私のオチのない話や、答えのない考え事に付き合ってくれてきた人がどの人生のフェーズでもちゃんといることが表している。なんでもないことを、脳みそが疲れるまで一緒に話してくれる人を、本当に大事にしようと思った。

 

この前初めて会った人にいつものように20%増しくらい元気な感じを頑張って会話していたら、「すごく明るいけど、あんまり心を開いてない感じがするね」というお言葉を頂き、衝撃のあまり、好きになっちゃいそうになった。

そうなんです!心の開き方、誰か教えてよ、というかお前が開いてくれや!

後学のためにどうすればもっと心を開いているように見せられるのかを教えてもらいたかったけれど、その人はもう会ってくれなさそうなので、ただ心を少しだけ開きかけた私だけが残りました。衝撃に弱いんだよな。

心を開いてるように見せるのが上達するのが先か、開くのが先か、どうか遠くで成長を見守っていてください。

 

マッチングアプリ、もうだめだと思いながらスワイプをやっている。みんな大嫌いです。誰にも興味ないです。クソめ。自分の時間が尊すぎて、興味ない人間に割く時間がないです。でも恋愛って!?良いものってみんな言ってたからさ!?みながすなる恋愛といふものを私もしてみむとてすなり…。(できない)

 

 

 

食事

 

高校生2年生くらいからお菓子を自分で買うことと、ジュースを飲むのを禁止した。その頃の自分が何を考えてそう言うふうに思ったのかは覚えていないけど、自分の気に入った自分でいたいなと思ったことがきっかけだったと思う。

周りの買い食いする友達を内心冷ややかな目で見ていた、太っている人は自分より醜くて、下だと思っていた。

 

大学生、コロナ禍で有り余る時間で食べることだけが快楽になって、ちょっとストレスが溜まるたびに過食していた。今よりあの時の方がひどい食事だったと思うけど、まだあの時は食べたいものが沢山あったから良かったなと思う。

学食の唐揚げマヨ丼、生鮮館なかむらの竜田揚げ、5個入りの安いドーナツ、アイス

この頃から人前では食べてないor健康的な食事をしているというふりをする(格好つける)ようになってた。

バイト先ではめったに食事とらなかったしジャンクなものなんて食べるのハア?バカじゃないですか?って顔を外ではしながら家で気持ち悪くなるまでかっこんでいました、本当はエビフィレオとか大好きだし、期間限定の商品とか食べたかったけど、誰かに見られることが自分的にはダメだった。

 

友達とカフェいってケーキ食べるとかはできる。それは「自分で選んだ食事」ではないから、自分を許せる。

自分で選んでいる食事を人に見られることがダメで、だからこいつはこんな風なんだと思われているんじゃないかと思ってしまって許せない。

 

社会人、仕事のできなさを他のベクトルの努力でカバーしたくなりダイエットをする。どのタイミングからかは覚えてないけどスーパーの揚げ物買うの禁止、お菓子買うの禁止、もらっても食べてはいけない、菓子パン禁止、など色んな謎ルールを作り始める。

仕事が終わるのが遅いのでお湯を沸かすかレンジを使う以外の調理ができなくなり、簡単に食べられるものしか食べなくなり、結果ストレスが溜まったときの過食がより手軽になる。

謎ルールがあるから決まったものしか食べられないので、その決まったものをアホみたいに食べて気持ち悪くなり、最悪な時には吐いたりしてた(もうやってない)気持ち悪くなるまで食べるのは今もやめられない。だから全然痩せないし肌も荒れるし、結局なにごとも解決はしていない。

 

高校時代から、これは食べたら太ってしまうとか肌が荒れてしまうとか、思い込んでルールを決めて、それを食べずに守れると心が安らかだった。破ってしまえばもうダメだとばかりに過食していた。

そうやって今まできて、食べたら良くないことが起こる(と思い込んでいる)ものがありすぎて、食べることが大好きなはずなのに、自分が本当は何が食べたいのか、どんな味が好きなのかわからなくなっている。

カツ丼が大好きなのに、パフェが大好きなのに、食べてしまったら、それを選んでしまったら起こることが先に浮かんでしまって、本当に好きなのかわからなくなる。

 

贅沢な悩みだよ

高校の時、死ぬほどキツい練習終わりに汗だくで食べるアイスのみかんバーがいっっちばん、記憶の中で美味しかった

あのときのおいしーーっていう気持ちを

ずっと大事にしたいのにな

 

みんな、こんなもんなのかな?

ご飯食べるのって本当に楽しいはずなのに

楽しくしたいのに、できない。とか

もはや他人の体型と比べてどうとかじゃなく

現状の自分のままでいることがナチュラルに常にずっと許せなくて、ダイエットじみたことをやってしまう。とか。

 

こんなの、やめたいね〜

本当、何も楽しくないもんね

 

いつか絶対に、自分で心から、迷いなくカツ丼の大を選んで食べられる人間になりたい。

そう思ってるから、少しずつでもなんか良い方向に前進していきたい。

ものもらいできた

 

歳をとると色んなことが遠くなると何かで読んだんだけど、24歳にして本当だなぁと思っている。この調子だと80歳とかになったら、物事は一体どこまで遠くなってしまうのやら。

 

色んなことがうるさいと思う。見たいと思ってないのに流れる番組、コマーシャル、イヤホンで聴く音楽、工事の音、YouTubeの効果音、時間を埋めるための雑談、寒いこと、暑いこと、重ね着をたくさんすること、…

それらをカットした結果、世界はしずかになって、だんだん遠くなっていく、自分に関係がないかもと思うものを排除すれば、自分以外のものがなくなっていく。それは淋しいんだけど、淋しくて、安心する、私の部屋はいつもすごく静かでたまに部屋がパリッて音がする、ばんちゃんがいつのまにか静かに移動している(ばんちゃんがいない頃は、あまりにも静かすぎて望んでそういう生活をしているはずなのに、なんだか気が狂いそうだった)

 

ものもらいが左目にできました。

痛いしキモい。

 

生活の全ては、ものもらいを中心に回るようになり、ものもらいのことばかりを考えており、痛いしキモいことを除けばとても快適だと気づく。幸せとはとか人生とはとか考えてしまう人は、腕とか折ってしまえばいい気がする。

実感できる痛みの集中力はすごい。いまここ、この目ん玉の痛み以外、全て重要なことではなくなっている。

心が元気な人はきっと、自分の頭の中以外のことに、腕を折るとかのやり方ではなく没頭していて、だから幸せそう。

 

私はいつも頭の中の考えがまとまらないので、それは世界中が大変にうるさいからで、だから色んなことの音量を小さくして、それでやっといろんなことを考えながら普通に生きれている(でもやっぱりそれでも上手くはできなくて人に嫌われたり怒られたりしているヨ)

考える必要なんかないことまで考えるために色んなことをカットして、それが幸せに繋がらないことに気付いているのに、やっぱり考えることをやめられない。

 

ものもらいができて目に心臓があるみたいにズキズキする、いつだって生きているこの瞬間!この今!こそが全てなのに、それを「頭でわかっている」ということを頭でわかろうとしてるんだから、なんか遠いのです。