love in the first degreeだね

フルグラはおいしい

社会の

 

食べられなかったときも、食べまくってたときも、それで肌がぶつぶつで気持ち悪くなったときも、自分が最高だと思ってる変な髪型してたときも、切羽詰まって心無い発言をしてしまったときも、ずっと誰かがそばにいてくれたなと、昔の写真を見返していて思った。寂しい、誰にもわかってもらえないと思っていたけど、私全部をまるっと受け入れてもらう必要はなくて、私のいろんな一面を少しずつ知っている人がいれば、それはけっこう楽なことかもしれない。友達とか、いつも駅前を熱心に掃除している人とか、レジで挨拶だけする人とか。丸ごと受け入れてもらう必要はないということは、丸ごと誠実でいたり丸ごと間違いのない人間でいなくてもいいということだと思う。

いつも自分の考えていることの「全て」が適切に言葉にして相手に伝えられるように、等身大の私を受け入れてもらえるように、と思っていたけど、そこに集中しすぎて、その空間で生まれる感情の素晴らしさをわかってなかったな、と思った。(自分のお気持ちを表明したいだけなら、壁と喋っていればいいんです)

私のいろんな一面を一部知っている人が各所にいて、そこで生まれる化学反応のようなものが、コミュニケーションなんだなぁ。私は全然美味しいところをしらずに、コミュニケーションが辛いと思っていたなあ。

落ちているときも、良い具合の時も、自分が醜い時も、そういうの全てを指摘せずに離れずに、一緒にいてくれていた人達の、社会の、ありがたさよ。寂しいとき、全てを受け入れてくれる神様のような運命の1人を私は求めていたけど、そんなたった1人だけが、私を救ってくれたわけではないし、きっとこれからもそうなんだと思う。私はたった1人で、死ぬまで1人で、心の全てを分かり合える人なんていない、だからこそたくさんの人との関わりなしには、生きていけない。もう大丈夫そう。